人魚姫がヤンデレだったら【前編】
深い海の奥底に、豪華なお城がありました。壁はサンゴ、窓はコハクで出来ています。
王様には六人の美しい人魚の娘がいました。中でも末の姫は、ひときわ美しいと有名です。ただ、普通の人魚よりもほんの少し、しっと心が強いことで知られていました。
人魚の世界では、十五歳になったら海の上の世界を見に行くことが許されています。今日は末の姫の誕生日。彼女は心をときめかせながら、海の上の世界を見に行きました。
海面から顔を出すと、まず目に飛び込んできたのは、一隻の大きな船でした。甲板から中を覗いて見ると、たくさんの人間がパーティーをしている最中でした。
普通の人間と比べてもほんの少しだけしっと心が強い人魚姫は、グラス片手に談笑している王子様に、恋をしてしまいました。
人魚姫は、夜が更けるまでずっと、ずっとずっとずっとずっとずーっと、王子様のことだけを眺めていました。他の人間は、石ころに昆布の毛が生えた程度の存在にしか見えませんでした。
会話の内容から、王子様の誕生日パーティーであることがわかりました。人魚姫は誕生日が同じであることに運命を感じました。他にも、王子様の名前と、年齢と、王子様が王子であるという事実と、お城の住所と、婚約者はいないという情報を手に入れました。残念なことに、電話番号とメールアドレスは知ることができませんでした。人魚姫は、海の魔女に頼んで彼の電話番号とメールアドレスを教えてもらおうと決意しました。
と、そのとき。空模様が急に変わりました。突然の嵐です。船は為す術もなく横だおしになりました。
考えるよりも先に体が動いた人魚姫は、海に落ちてしまった王子様を抱きかかえ、浜辺へと運びました。
人魚姫は懸命に、王子様の名前を呼びます。しかし、反応はありません。彼女は夜が明けるまで、ずっと看病をしました。
朝になり、王子様の容態が安定したのを確認すると、人魚姫は胸を撫で下ろしました。そして、乾いてしまった人魚の足ヒレを潤すために、海の中へと戻りました。
人魚姫は海の中から、まだ眠っている王子様の様子を遠目に見張っていました。すると浜辺に、一人の娘がやって来ます。彼女は倒れている王子様を見て驚くと、すぐに人を呼びにいきました。
娘が人を連れて戻ってくると、王子様が目を覚ましました。なんとか起き上がった王子様は、娘を見て微笑みました。
「ありがとう。僕を助けてくれて」
心臓がずくり、と痛みました。娘は戸惑いながらも、はっきりと否定するようなことは言いません。王子様は「お礼がしたいから」と言うと、娘の手を取り、お城に連れて行きました。
人魚姫はその様子を、呆然と眺めていることしかできませんでした。
*
海に帰った人魚姫は、城にも帰らず、海の魔女が住んでいる洞窟に行きました。
「失礼します」
サンゴの杖でるつぼの中身をかき回している魔女は、人魚姫の声を聞いてニヤリと笑いました。
「おやおや、妬きもちやきのお姫様じゃないかい。今度は何と引き換えに、誰の住所が欲しいんだい」
「……住所はいらないわ。それよりも、頼みたいことがあるの」
「ほう。電話番号かい? メールアドレスかい?」
「私を人間にしてほしいの」
魔女は手を止め、おもむろに振り返りました。
「今度は人間の男かい。まあいい。人間の足をやることはできるが、代償は大きいぞ。今回ばかりは、お前さんの爪一本や二本じゃあ済まない」
人魚姫の手には、一本足りとも爪が残っていませんでした。それがあったであろう場所には、赤黒い大きなかさぶたが出来ているだけです。
彼女は黙って魔女の話に耳を傾けました。
「そうだねぇ、お前さんの声を貰おうか。その声は美しいと評判だからね」
「いや! それだけは絶対にいや!」
人魚姫は魔女を睨みつけながら、王子様の言葉を思い出します。娘をお城に連れて行く途中、ぴたりと足を止め、「あれ、でも声が違うような」と呟いたのです。意識を失っている間に自分の名を呼んでくれていた声を、彼は覚えていたのでした。それでも王子様は「ごめんなさい。気のせいですよね」と歩き出してしまいましたが。
人魚姫の真剣な眼差しを受けて、魔女は大きくかぶりを振りました。
「わかった、わかったよ。お前さんは頑固なことでも有名だからね。じゃあ、こうしよう。人間の足をやる代わりに、お前さんの『幸せな未来』を貰う」
「幸せな未来?」
「そうだ。幸せな未来を奪われたお前さんは、これから先、どんなに足掻いても幸せにはなれない。待ち受けているのは不幸な未来だけ。どうだい?」
「わかったわ」
即答でした。驚く魔女を尻目に、人魚姫は思います。魔女が与える不幸など、このまま彼に会えない未来に比べたら安いものだと。
こうして人魚姫は人間の足を手に入れました。魔法をかける前に言われた通り、足は歩くたびにガラスの破片を踏むように痛みます。ですが、人魚姫はそれを苦には思いませんでした。
つづく